0)今回のルート(1998/11/13-1998/11/17)
インド後編:ヴァラナシ→カルカッタ
1)バスの中の騒動
和やかな気分で過ごしたネパールでの10日間でしたが、大学卒業までにアジア一周を成し遂げたかったので、そろそろインドへ戻ることにします。一説には、ネパールからランドクルーザーをチャーターすれば、中国のチベット自治区へ抜けられるという噂もあり、それはそれで大変心惹かれるものがありました。
一昨年(2018年)、以前から乗ってみたかった西蔵鉄道に乗るべくチベットのラサを旅行したのですが、すでにチベットは中国当局によって渡航を厳しく管理されていて、チベット入境証を発行してもらわないと立ち入ることすらできません。また、入境証には、何月何日から何月何日までチベットのどこの都市を旅行するか細かく記載されています。そのため、チベット自治区内を走る高速バスなどに乗車して自由に域内を旅行することはできなくなってしまっています。
■チベット入境証(2018年4月30日-2018年5月3日)
ネパールを訪れたとき(1998年)は、近い将来チベットがこのような厳しい管理下におかれるとは思いません。いずれまた機会があるだろうと断念し、東南アジアの方へルートを取ることに決めます。ですが、もうチベット域内を自由に旅行できる日は来ないかもしれないですね。
■検問で騒ぐインド農民
カトマンズを出発して、スノウリ経由で無事にインドに入国できました。
インドに入国後は、長距離バスを乗り換えて使ってヴァラナシへ向かいます。ほぼ一日かけての移動でした。
ここで事件が起きます。インド国境から乗ったバスが途中で公安の検問にあります。
マークされたのは、サリーをまとって大きな麻袋を運んでいたインド人女性。
現地のコトバがわからないので見た状況から察するしかないのですが、おそらくその麻袋の中身は大麻の種子だったようです。それを発見した公安は、その女性を引きずり出そうとバスのなかで取っ組み合いになります。当然女性は捕まるわけにはいかず、必死で抵抗します。すごい力で公安の人間を振りほどこうとするので、サリーが引きちぎれるのではないかというぐらいの勢いです。
一時間ぐらいそのような悶着が続いていたかもしれません。そのうち公安がスーッと追及の手を緩めて降りていってしまいました。なにがなんだかわかりません。なにかしら心づけのような手を使ったのか、麻袋だけ没収することでことが済んだのか謎のままでした。
2)ヴァラナシのカオス
ヴァラナシは、インドに来たなら必ず訪れなければならないだろうと言われているガンジス川沿いにあるヒンドゥー教の聖地です。
ここのガンジス川は、洗濯から沐浴、しまいには荼毘に付された後の埋葬までを一手に引き受けています。経験というか、話のネタと言う意味でも、勇気を出して沐浴をしてみたいところなのですが、困ったことに旅の道中、常に首からさげた貴重品袋にパスポートとT/C及び現金をほぼ全額入れています。その貴重品袋を宿に置いておきたいものの、残念ながら選んだ宿がドミトリーです。列車の寝台車で上段に寝るときは、靴を盗られないように自分の寝台の側に置くように他の旅行者からアドバイスを受けるような国です。旅行中の全財産を入れた貴重品袋を川のほとりに放置して沐浴をするなど自滅行為以外のなにものでもありません。あえなくあきらめて見学だけにとどめます。
ワタシがガンジス川のガート(川沿いの階段状のスペース)で見学をしているとたまたまですが、火葬をされているのを見学することができました。死体が焼かれるのを見ることに対して特段怖いという感覚はありませんでしたが、日本の火葬場ではお目にかかれない様子だったので、貴重なものを拝むことができたと思います。
前述したドミトリーですが、当時のヴァラナシで日本人が泊まるとしたらクミコハウスを選ぶのが定番でした。ベタな選択だとは思いましたが、アットホームで居心地の良い宿でした。今でも営業はしているようですが、他にも手頃な宿が増えているようで今は当時のような盛況ぶりではないようですね。一泊Rs.80で泊まらせていただきました。ここはホントに日本人専用ゲストハウスになっていてヴァラナシに何日も滞在する人たちが大勢いました。
その日、ヴァラナシで少し仲良くなった旅人と近所のラッシーを飲みに行きました。そこで飲んだラッシーが少し緑がかった色をしていたのですが、よくわからず飲み干してしまいました。するとその日の夜、完全に胃腸をやられてしまいます。まだ20時もまわっていないのに猛烈に気分が悪くなりダウン。早々に横になるのですが、胃腸が激しくやられているせいか、少し意識が朦朧としてきます。「ここまでひどいことに?」と思いながらも必死に耐えます。まるでピンポンパン体操やポンキッキで見たような幾何学模様が脳裏を駆け巡る状態に。いったいあの経験はなんだったのか謎が深まるばかりです。恐るべしインド。。。。
翌朝、まだ胃腸が芳しくはありませんが、ガンジス川も見学できたということで、ヴァラナシを一泊で立ち去ることにします。ゲストハウスにいる旅行者に別れを告げると、「もう行くの?この国をそんなに急いで行ったら死ぬよ!」と言われてしまいました。つくづくそのとおりだと思いました。今考えると非常に義務感に溢れた旅を敢行してしまったと思います。とにかく足早に次の町、カルカッタに向かいます。
3)カルカッタからミャンマーへ
インド後編と書きましたが、1998/11/13-1998/11/17ということで、正味5日間しか滞在していません。特にカルカッタに関しては、ミャンマーへ入国するために立ち寄っただけで特に目立った観光もしていません。あいかわらず、安宿暮らしなのですが、久しぶりに広々としたゲストハウスを見つけることができたので溜まった洗濯物を片付けたり、Rs.2で甘ったるいチャイをモーニングティーとして堪能したりして過ごしていました。
当然、ここの町ではヤンゴン行きのフライトチケットを手に入れなければなりません。本来であれば、陸路でミャンマーに入国したいところですが、当時はミャンマーへの陸路での入国は禁止されており、このルートだけはフライトを使用するしかない状況でした。
(当時、ユーラシア大陸横断のバックパッカーの番組が流行っていましたが、ミャンマーを越えるところは編集でごまかしていたようです。)
今は、インドからミャンマーも陸路で移動することが可能なようですが、折しも新型コロナウイルスの影響で、直近ではミャンマーの国際空港から入国しか認められていないみたいですね。
というわけで、次回はまだ軍事政権下のミャンマー旅行について綴ってみようと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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