旅の思ひ出01|中国新疆ウイグル自治区編(1998/09/16-1998/09/29)

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0)今回のルート (1998/09/16-1998/09/29)

 中国:西安→トルファン→クチャ→カシュガル→パキスタン国境

Backpacker1998-002

1)空路で西安へ

出発の前に概ねコースは決めていました。中国からパキスタンへ抜けて、そこからインドへ向かう。その後ネパールからチベット進路を取るか、ミャンマー、タイと東南アジアへ進むかはハッキリとは決めていませんでした。
ただいずれにせよ中国に行くことは決まっていましたので、西安までの片道切符を旅行代理店で購入して飛び立ったのが1998年9月16日です。ビザは、中国とパキスタンのビザだけ取得しました。

中国キャリアのフライトであることも理由かもしれませんが、ほとんど誰も乗っていないフライトでガラガラの機内でをキョロキョロしていたように思います。
14時ごろ出発のフライトだったと記憶していますが、西安に到着したのが、19時頃。
空港で普通に両替できるだろうと思っていたのですが、当時西安に19時頃到着するのは相当遅い便だったようで両替所もやっていないありさま。当時はTraveler’s Check(TC)が安全とされていたので、所持金の2/3はTCで持っています。現金はほんの少ししかありません。なけなしの現金(1,000円ぐらい)を軽い交渉を交えながら空港内の商店のおばちゃんに頼んで70元に変えてもらいました。今だと、1,000円はせいぜい60元程度にしかなりませんが、当時は70元でも随分とひどいレートでしたが致し方ありません。元がなかったら何もできないことは明白でした。

とりあえず、街中に出て宿を探します。久しぶりに発展途上国のバスに夜暗くなってから乗ったのですが、車内が暗い。幸いコトバが出来るので安心なのですが、それでもずいぶん不安な気持ちでバスに揺られました。なんとか目当ての「招待所」と呼ばれる安宿にたどり着き、居場所を確保します。

■謎の散髪屋

この日、夕飯をとった後、この先の旅の邪魔になると思い散髪をします。たまたま宿泊の招待所の隣に「理髪」という看板を見かけたので入って髪を切ってもらいます。女性スタッフが2、3人で営業しているお店でした。
「散髪の技術はどこで覚えたの?」、「中国語は北京で勉強したんだよ。」と当たり障りのない会話をしながら髪を切ってもらうのですが、少し要領を得ません。やたらとマッサージをしないかとすすめてきます。こちらとしては髪を切ってもらえればそれで良いので、「いや、今日は髪を切りに来ただけだから。」とやんわりと断るのですが、「この奥の方でマッサージのサービスをやっているのよ。」と食い下がります。帰り際、「明日も隣の招待所に泊まるのだったら、またおいでよ。」と営業トークを展開。
「分かったよ~。考えとく~。」といってその店をあとにしました。
勘のいいかたならお分かりになるかもしれませんが、全くもって疎いワタシは、随分と素っ頓狂な客だったに違いありません。

西安では、兵馬俑、鐘楼などを観光しましたが、今強烈に記憶に残っているのは、この謎の散髪屋さんでほぼ素人の方にお金を払って髪だけ切ってもらったという間抜けなエピソードです。 

2)砂漠の町トルファン

西安観光を終えて、列車でほぼ丸一日かけてトルファンへ移動します。
ここは、ウイグル観光としてはかなりオススメの街です。
火焰山、葡萄沟、交河故城、高昌古城などを一日かけて巡りました。
当日は、野外の屋台村のような場所で現地のウイグル人観光ガイドをやっているお兄ちゃん数人と日本人数名で宴会をさせてもらいました。
宴会そのものは楽しかったのですが、その場の勢いで白酒を飲ませられ次の日お腹を下して使い物になりませんでした(泣)

中国が不思議なのは、ロシアやアメリカのように国の中での時差を設けていないことです。あくまでも北京のような沿岸部を中心に中国全土がまわっているのだということを主張しているようです。よって、通常の中国時間に対して感覚的に2時間ぐらい遅れています。20時でも、空はまだ18時ぐらいなのでこれから暗くなり始めるぞといった感じ。朝も10時ぐらいになってようやく朝が来たぞという雰囲気になります。

トルファンの旅を終えてクチャに向かうのですが、実際には新疆ウイグル自治区の首府であるウルムチに立ち寄っています。ただ特に見どころもないかなと判断し、滞在時間2時間程度で、長距離バスのチケットを買ってクチャへ向かって発ちます。

3)古城の町クチャ

中国の鉄道は、今でこそ最果ての街、カシュガルまで延伸していますが、1998年時点では、新疆ウイグル自治区の鉄道の度はウルムチまでになります。ここから先は長距離バスの旅になります。バスにも寝台がついている路線があるようなのですが、残念ながらウイグルの旅では、そのような恵まれた路線はありませんでした。
ボロボロのシートに席を確保して大きなバックパックは他の乗客の荷物と同様、後方にひとまとめにされクチャへ向かいます。

クチャでは、何人かの日本人と出会うことができたので、彼らとスバシ故城、クズルガハ千仏洞などを周りました。
その中でも今でも年賀状のやり取りだけとはいえ音信を保っているのが関西にお住まいの税理士の先生です。当時30代後半でした。なんでも製薬会社の営業をされていたのだそうですが、写真が好きなので、一年のうち数ヶ月は旅行ができる身分になるために、猛勉強して税理士の資格を取られたのだそうです。よって、士業でリッチマンをねらうというよりは12ヶ月のうち9ヶ月程度働いて、3ヶ月は長期間の旅に出るというライフスタイルを実践されている方でした。そんな生き方もあるのだということを考えさせられた出会いでした。
子どもが大好きそうな方で、ウイグル人の子ども見かけると嬉しそうに手を振っていました。これは推測の域を出ませんが、結婚して家族を持つか、写真や旅のような自由人として生きるかの選択において、彼は後者を選んで実践されているのだと、まだまだ若造のワタシは考えさせられ、全部は取りにいけないものなのだなあと思ったものです。

4)最果ての街 カシュガル

■人間も所詮動物

クチャを発ち、カシュガルに向かいます。このコースも当然長距離バス。延々と砂漠地帯を走ります。乗客の7割はウイグル人、漢民族が2割、外国人観光客はワタシ以外に西洋人が数人。バスの中にトイレ?・・・あるわけありません。数時間に一回、トイレ休憩をはさみます。ドライブインのようなスポットに駐車したときは、売店や食堂を利用するかわりに併設のトイレを利用できますが、ときには、休憩とはいえど、トイレなどどこにも見当たらないときもあります。
男性は、適当に済ませられますが、女性はそういうわけには行きませんので、砂漠の中をできるだけ目につかないように進んでいって物陰を見つけてそこで済ませたり、ポンチョのようなものをかぶって済ませたりしていました。けっこう過酷ですね(笑)

ある場所でトイレ休憩と言われ、連日のラグ麺でお腹がユルくなっていたので致し方なく大のトイレを利用します。
当時の新疆ウイグル自治区の砂漠の中にあるトイレは、仕切りなんてありません。
パーソナル便器でさえありません。壁に向かって溝が掘られていて、壁に背を向けて座り込み、みんなで一列にしゃがんで並び、用を足します。あとから入ってきた西洋人がその状況を見て、あからさまに顔をしかめて、「Oh…オレには無理だ…」といった感じで後を去りました。みんなで並んで用を足していると思うのは、普段キレイに着飾っていても、「所詮人間も動物の一種なんだ。」という事実を理屈抜きに突きつけられるのです。
泣きたいぐらい情けなくなりますが、ある意味、メンタルが鍛えられるのではないかと思います。

■ラグ麺から解放

カシュガルにつくとこれまでのウイグルとは少し違い、少し漢化した街が展開されます。ウイグルの道中、ずっとラグ麺しか食べられなかったのに、あちこちに「全品六元」というまるで餃子の王将のようなノリのレストランが見られます。
(今思い出してみるとウルムチにほとんど滞在しなかったので、ずーっとラグ麺しか食べられなかったのかもしれません。、)
宿泊した安宿で、たまたま出会ったのが同じ学年の学生でしたので、彼と数日行動をともにし、観光して腹をすかしたら、いわゆる「六元飯屋」で、好き放題食べまくるという日々を送っていました。
ここまでくると、中国とはいえ完全にイスラム教エリアですので、朝はコーランの読経が拡声器で町中に響き渡り、その声で起こされます。街中には、美しいモザイク模様のモスクがありムスリムのウイグル人たちが、大勢お祈りに集まってきます。

同部屋の学生ですが、ワタシと同じように翌年から就職することが決まっていて、内定式前にパキスタンからウイグルに入ってきたそうです。ワタシがこれから向かうパキスタンは、美味しいものが何もないから、「今のうちに食べられるだけ食べておいたほうがいいよ。」とアドバイス。ウイグルでさえも、食が単調なのにこれ以上に??と少しげんなりしてしまいます。
彼は、内定式に間に合うように東京に戻らないと行けないとブツブツ言っており、どうやったら最速で日本に戻れるか考えていました。しかし、どう考えても空港のある町までは2日はかかります。そこからうまくフライトを乗り継いで東京に行けたとしてもトータル4日ぐらいはかかるのでは?ということで、少しソワソワしている様子でした。すでに9/27です。内定式は10/1です。あとから聞いたのですが、結局、内定式には間に合わず、人事の担当者からこっぴどく叱られたのだそうです。
幸いワタシはこの旅の計画を、就職先から内定を得た後に、担当の人事に根回ししており、内定式の欠席を了承されていたので、安心して旅行できていたのですが、やはり会社によって対応が違うものなのだということを知らされた次第です。

5)パキスタンへ抜ける

カシュガルを出発し、タシュクルガン経由、標高4,700mのクンジュラブ峠を越えて、パキスタンのスストへ向かいます。
一日では、一気にパキスタン側に抜けることはできないらしく、9/28にカシュガルを出発して、一旦、安宿に20元払って泊めてもらいます。翌日9/29、再出発。
2018年に中国 西寧から青蔵鉄道に乗ってラサにでかけたときも高山病に襲われて散々な目にあったのですが、この中巴国境地帯でもバスの中で意識が朦朧としてきます。
だんだん気分が沈んでいき、いったい何が楽しくてバックパッカーとかやってるんだろう・・・とか、変なことを考え始め気持ち悪くなっていきます。なんでこんな気分が悪くなるのだろうかと考えた後、「これが高山病なのか?」と気づきます。
苦しみながらもなんとかパキスタンに抜けることができましたが、判断力が落ちていたようです。中巴国境にパキスタン・ルピーに両替できるところがあったので両替したのですが、そこのレートがインド・ルピー並だとあとから知らされます。
おおよそRs.1=2円程度で両替できるところが、Rs.1=3円程度という法外レート。

今だったら、仕方ないで済ませられるのですが、当時は学生の貧乏旅行なので、この事実をこの先で出会った旅行者と情報交換するうちに知らされて、ちょっとげんなりしてしまいます。2,000円ぐらい損をしたと知ると、貧乏バックパッカーにとってはかなりの痛手なわけです。

次回は、パキスタン編をつづっていきたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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