悲しいかな年齢を重ねるにつれて、「男は甲斐性、女は愛嬌」みたいな概念の前ではますます逃げ場を失っていきます。
一方で男性のモテ要件として甲斐性を意味するところの「経済力」というキーワードの次に「やさしさ」というかなり曖昧な概念を見つけられることは大方異論のないところかと。ただし、それが曖昧というのは「やさしさ」というコトバや概念がとても不確かなものだからです。ワタクシ自身、少し前まで「やさしさ」というのは「労り(いたわり)」のようなものだと考えていました。
- いつもニコニコしている
- すぐ褒めてくれる
- 疲れたら肩をもんでくれる
→ このような行為やふるまいがイメージしやすい「やさしさ」のありようかと。
これらが決して不要とは思いません。しかし違った形のやさしさがあるものだと気づかされるのです。
- 落ち込んだ状態のときにいちいち首を突っ込まない、しかも放置もしない
- 少林寺拳法の八方目のように視野にはいれるけどあえて積極的に視点を置きにいかない
- 常に意識にはあるけれど干渉しないでおく
→ 見守るやさしさかと考えます。
このタイプが必要な理由はいくつかあります。
- 本当につらい状況において周囲の人間は実はかなしいほど無力であることを知る必要があります
- その人のつらい状況を本当の意味で解決できるのはその人しかいない。決して周囲はその人にとって代わってあげることはできない。
- 仮に何かサポートが表明されたとき、それはその人を助けたい気持ちによるものなのか、あるいは見守ることを継続することから逃げたい気持ちによるものなのか、自分のココロの動きを丁寧に観察しなければなりません
やがてその人が自分の視野からいなくなったあとでも、その人を助けてあげられるとはどのようなことなのかと考えることが必要なのだと思うのです。
ただし例外があります。その人があなたに助けを求めたなら、そこには手を差し伸べても良いのではないでしょうか。すなわち相手から「教えてほしい」、「手伝ってほしい」、「味方してほしい」、「話を聴いてほしい」というリクエストを受け取ったのなら、そこには全力で応えてあげて良いと思っています。(それでも自分の無力さを思い知るのですが。)
このようなことが意識の念頭にあるのでワタクシは自分の持っているポテトチップをむやみに人にあげないのです。
--その人はポテトチップを食べられないほど口がカラカラに乾いているかもしれない
--その人に今ポテトチップをあげたところで三日後にはまたお腹をすかせているかもしれない
--その人にポテトチップをあげるのはその人に美味しいと思ってもらいたいからなのか、あるいは自分が感じている美味しさをその人にも共感してもらいたいだけなのか
その人がアナタの食べているポテトチップを食べてみたい、お願いだから少しだけ分けてくれないだろうかというまでじっと待ってあげる。その人を見捨てることはせずじっと側に居る。
その人が食べたいといってきたら全力で差し上げればよいのです。横向き、消極的とも言われかねないその姿勢ですが、そのタイプのやさしさを必要とする局面があるのです。
その考えを展開すると、
- ビュッフェでは人の分までとらない
- 焼肉はむやみに皆の分まで焼いてあげない
- 焼鳥の串は勝手に抜かない
- 唐揚げにレモンはかけない
- グラスが空いてもお酌はしない
これらはいわば飲み会あるあるですが、さらに展開するなら、
- 落ち込んだひとを安易に「パーッと飲み行こうぜ」などと言わない
- 「元気出しなよ」などは、断然ご法度。
久しぶりに顔を見た人に思わず「元気?」という挨拶をかけてしまうことだって本当にその人を慮っているのか?と問わなければなりません。
辛い状況かつ疲れが蓄積してる状態で周囲から「元気?」と何度も聞かれて反射的に「元気です!」と答えざるを得ないけど、実はとても辛い思いをしてるひとをたくさん見てきました。
むしろ「元気なさそうね」「疲れ溜まってない?」の方がベターアンサーです。今のところベストアンサーは建設現場で聞かれる「ご安全に」ではなかろうかと思っています。
それではまたいずれ。
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