去年よりすっかりさびついた外国語能力を回復させようとオンラインレッスンに励む日々です。
レッスンでは様々な教材が用意されていますが、その中で大喜利感覚で取り組めるなと気にいっているレッスンが「テーマ別会話」。それぞれのお題に対して自分の考えを言葉にします。閉じた空間での会話だから気軽な発言ができるので、トークネタを温めるのにも使えています。
ある日のお題が「Culture」。その中にこんなお題がありました。
Describe one thing that you want to change about your culture.
(自分の文化で変えたいことを一つ説明してください。)
自分のエピソードトークを考えます。ふと思いついたのはこのようなシチュエーションでした。
学校の授業、あるいは集団で参加している説明会に参加しています。一通りの説明を終えたところで講師から「ここまででなにか質問はありますか?」 という問いかけ。
--きまってだれも質問せず流れる沈黙。
ワタクシは思い切って手を挙げる。この行動は純粋な好奇心によるケースもあるが、むしろだれも質問をしなかったら聴いている側の反応が鈍いなと講師が思うのではないかと考えたときにこみ上げてくる申し訳なさや妙な気遣いに似た感情なのかと考えています。おそらくこの感覚はワタクシ特有の感覚なのかもしれません。周りの人々は自分から率先して手を挙げてまで疑問点の解消に向かう勇気はさらさらなさそうだから。
ただワタクシが手を挙げてしまうと雰囲気が一変しパラパラと質問しだすヤツが現れるのです。「オレもオレも」といった具合に。
実は、これって日本人特有の現象なのかと思っていたので、中国語のレッスンで「典型的日本人のふるまい」の例として話題にとりあげてみました。
すると、「それは別に日本人に限った話ではなく我々(中国人)だってよくあることですよ。我々はそんなことを『最初に蟹を食べるヤツにはなりたくない(我不想当第一个吃螃蟹的人)』って言います。」というのです。
まさに目から鱗です。食べることにあれだけ執着の強い中国人をもってしても「カニを食べる」ことがそれだけ勇気を絞り出したうえでの行動に値するのですから。(嘘)
という論点ではありません。当社エクスペリエンス調べ(嘘)によると中国人との会話において「ワタシの考えはこうだ!」といった自己主張を聞く機会は多いのです。そのため集団のなかで疑問を持った場合、過剰に人の目を気にして質問することを躊躇してしまう感覚などはさらさら必要としていないと思い込んでいました。それは彼らが厚顔無恥だということでは決してなく彼らの社会で不明点を曖昧にして放置することがある種の危険を伴う行為にすら思えるからなのです。
なので「最初に蟹を食べるヤツ」などといった情緒あふれる表現でこの状況を比喩していることが驚きの事実でした。
これから北京での冬季五輪に際し外交的ボイコットなどが取沙汰されているとこの国と渡り合うことの難しさを改めて感じずにはいられませんが、個人間のコミュニケーションレベルでは、思いのほか同じ感覚を共有できると思いました。
一方で、彼らが感じるある種の同調圧力の裏側にある力は、日本のワタシたちが感じるそれのように正体不明のものでないだけ合理的なものと言えるのかもしれません。ワタシたちの同調圧力の裏側にあるのは「世間さま」という極めて曖昧な概念なのですから。
それではまたいずれ。
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